壁かけ時計を両手で持って、中庭に老婆が立っていた。ぼくは老婆の横を通りすがり、立ち止まって、彼女にたずねる。『何時ですか?』。
「ごらんなさい」老婆がぼくに言う。
 目をやると、時計には針がない。
「針がありませんね」とぼく。
 老婆は文字盤を見ると言った。
「今は315分前。」
「ああ、なるほど。ありがとうございました」そう言ってぼくはたち去る。
老婆が後ろから何か叫んだが、ふり向かずに進んだ。通りへ出て、陽のあたる側を歩く。春の陽はとても気持ちがいい。ぼくはてくてく歩きながら、目を細め、パイプをふかした。サドーヴァヤ通りの角で、向こうからやってきたサケルドン・ミハイロヴィッチにばったり出くわした。ぼくらは挨拶をかわし、立ちどまって長いこと世間話をする。しかし路上も何なので、ぼくはサケルドン・ミハイロヴィッチを地下食堂に誘った。固ゆで卵と小魚をつまみにウォッカを飲んでから、別れの挨拶を交わし、また一人で先に進む。
 そこで突然、家の電気ストーブのスイッチを切り忘れたことを思い出した。なんてこった!ぼくはくるりとまわって家へひき返す。こんなに幸先よく一日が始まったのに、なんと、もう最初のしくじりだ。外に出るべきではなかったのかもしれない。 家へ帰って、上着を脱ぎ、チョッキのポケットから時計を取り出して、釘にひっかけた。そのあとでドアに錠をおろし、ソファベッドにひっくり返る。横になって、眠ろうとする。通りから腕白小僧どものいやったらしいキイキイ声が聞こえる。ぼくは横になって、奴らへの罰を考える。一番気に入ったのは、彼らがぴたりと動くのをやめるように、破傷風を感染させるというアイデアだ。親が奴らを家に運び去ってくれるだろう。子供たちはベッドに横たわって、口が開かないものだから、食べることさえ出来ない。だから栄養は人工的に補給される。一週間後に破傷風はよくなるが、子供たちはとても弱っているから、まだまるまるひと月はベッドの上に寝ていなくてはならない。そのあと徐々に回復しはじめるが、そこでぼくは破傷風第二弾を発動するのだ。奴らは全員犬死にする。
 ぼくはソファベッドのうえ、目を開いて横になっているが、眠れない。ふと、今日中庭で見た、時計を持った老婆のことを思い出した。時計に針がなかったのは愉快だった。そういえば最近、委託販売の店で気持ちの悪い台所時計をみたが、その針はナイフとフォークのようにしてあったっけ。 
 いけない!電気ストーブのスイッチをまだ切っていなかった!ぼくははね起きてスイッチを切り、それからまた寝ようと思ってソファベッドに横になった。目を閉じる。眠くない。窓からまっすぐぼくのほうに、春の光が差し込んでくる。すこし暑くなってきた。ぼくは起き上がり、窓際のベンチに腰を下ろす。
 今度は眠たくなってきたが、しかし眠るまい。紙と羽ペンをとって、書き始めよう。自分のなかに、ものすごい力を感じる。昨日のうちに、全部考えておいたのだ。これは現代を生きる、奇跡を起こさない仙人についての物語になるだろう。彼は自分が仙人であると自覚しているし、どんな奇跡でも起こすことが出来るのだが、しかしそれをしないのである。アパートから追い出されるときも、ただ指をふりさえすればよく、そうすれば部屋は自分のもとに残ることを知っていながら、彼はそうしない。おとなしくアパートから出てゆき、町外れのオンボロ小屋で暮らすのだ。この古いおんぼろ小屋を素晴らしい煉瓦造りの家に変えることだってできるが、やはりやらない。掘っ立て小屋に住み続け、結局彼は死んでゆく。自分の人生のために、ただ一つの奇跡も起こさぬまま。
 ぼくは座り、嬉しくて手をゴシゴシこする。サケルドン・ミハイロヴィッチは嫉妬で破裂してしまうだろう。彼は、ぼくにはもう天才的なものなど書けないと思っているのだ。はやく、はやく仕事をしないと!すべての眠りと怠惰よ、行っちまえ。ぼくは18時間ぶっ続けで書いてみせるぞ!
 もどかしくて、ワナワナと震えてしまう。どうしたらいいのか、考えがまとまらない。羽ペンと紙を持ってこなくちゃいけなかったのに、まったく必要のない色々なものばかり手にとってしまう。ぼくは部屋じゅうをかけずり廻った。窓から机へ、机からストーブのほうへ、ストーブからまた机、それからソファへ、そしてふたたび窓のほうへ。胸のなかでメラメラと燃える炎に、ぼくはあえいだ。今はまだ5時。この先にはまる一日、そして夜、夜中・・・。
 ぼくは部屋の真ん中に立っている。なにを考えているんだ?もう620分じゃないか。書かなきゃ。窓のほうに机を寄せて、座る。目の前には格子つきの原稿用紙、手には羽。
 心臓がまだドキドキし過ぎて、手が震えている。すこしおさまるのを待とう。羽ペンを置き、パイプに煙草をつめる。陽の光がまっすぐ目にさし込んでくるので、ぼくは目を細めてパイプをふかす。
 窓のすぐそばをカラスが飛んでゆく。窓から通りに目をやると、石畳のうえを、義足をつけた人が歩いてゆくのが見える。彼は片足と杖で大きな音をたてている。
「そうか。」− ぼくは自分にいう、窓の外を眺め続けながら。
 太陽が向かいの家の煙突にかくれた。煙突の影が屋根のうえを走り、通りを横切り、ぼくの顔の上にかかる。この影をつかって、奇跡の人について幾らか書くべきだろう。ぼくは羽ペンをつかみ、書く。
『仙人は背が高かった』。
 それ以上ぼくは何も書けない。空腹を感じ始めるまで、そのまま座っている。それからぼくは立ちあがり、食料品を保存している棚のほうへ歩いていき、手探りしてみるものの、何も見つからなかった。砂糖のかたまり以外は何もない。
 ドアを誰かが叩いた。
「どなたですか?」
 誰も答えない。ドアを開けると、朝がた中庭で時計と一緒に立っていた老婆が、自分の前に立っているのが見えた。驚きのあまり、ぼくは何もいえなくなる。
「さあ、来ましたよ」と老婆は言って、部屋のなかに入ってきた。
 ぼくはドアのところに突っ立ったきり、どうしていいのかわからない。老婆を追いだしてしまおうか、それとも逆に、お座りくださいと勧めるか?けれど老婆は、勝手に窓辺のぼくのベンチのほうへ歩いていって、そこに座りこんだ。
「ドアを閉めて、鍵をかけるんだよ」と老婆はぼくに言う。
 ぼくはドアを閉めて錠をおろす。
「ひざをつきな」と老婆が言う。
 ぼくはひざまずく。
 だがそこで、ぼくは自分の置かれた状況のばかばかしさに気がつく。何をこんな老婆の前でひざまずいているんだ? 大体どうしてこの老婆はぼくの部屋で、ぼくのお気に入りのベンチに腰かけているんだ?どうしてこの老婆を追っ払わなかったのだろう?
「あのですね」とぼくは言う。「ぼくの部屋でわがもの顔をする権利があんたにあるんですか?命令したりして。ぼくはひざまずく気なんかまったくありませんよ。」
「しなくていいよ」と老婆は言う。「今度は腹ばいになって、床に顔を押しつけな」
 ぼくはただちに命令に従った・・・。
 目の前に、正確にひかれた正方形たちがみえる。肩と右わき腹が痛くて、体勢を変えないといけなかった。うつ伏せから、やっとのことでひざを立てる。身体全体がはれあがり、うまく曲げられない。あたりを見まわすと、ぼくは部屋のなかで、床の真ん中に膝をついていた。意識と記憶がゆっくりと戻ってくる。もう一度部屋のなかを見まわすと、窓際のベンチに誰かが座っているのに気がついた。いまは白夜だから、部屋のなかはやはりそれほど明るくない。ぼくはじっと見る。神様!まさかあの老婆はまだぼくのベンチに腰掛けているのでしょうか?首を伸ばして見てみる。そうだ、もちろんこれは、頭を胸にがくんと落として、老婆が座っているのである。彼女は眠りこんでしまったに違いない。
 ぼくは立ち上がって、軽く足を引きずりつつ、彼女に近寄る。老婆の頭は胸のほうにがくんと落ちて、両腕はベンチの両脇にぶらんと垂れている。この老婆をひっつかんで、ドアの向こうに放り投げてやりたい。
「あのですね」とぼくは言う。
「あんたがいるのは、ぼくの部屋なんですからね。ぼくは働かなきゃならんのです。出て行ってください。」
 老婆は動かない。ぼくはかがんで、老婆の顔をのぞきこんだ。老婆の口はわずかに開いており、はずれた入れ歯が口からつき出している。突然すべてがはっきりした。老婆は死んでいた。
 ぼくは恐ろしいほどの忌々しさを感じた。なんだってこいつはぼくの部屋で死んだのだ?死人には我慢ができない。今この死骸を持って、庭番か管理人と話をつけにいき、なんでこの老婆がぼくの部屋にいたのか説明してみるがいい。ぼくは憎しみをこめて老婆を見た。それとももしかして、死んでいないのか?彼女のひたいにそっと触れてみる。ひたいは冷たい。手も。ああ、どうしたらいいんだろう?
 ぼくはパイプをふかしはじめ、ソファベッドに座る。気違いじみた怒りが湧き起こってくる。
「この人でなしが!」口に出して言った。
 死んだ老婆は袋みたいにぼくのベンチに座っている。その歯は口から垂れ下がっている。死んだ馬にそっくりだ。
「いやな絵だな」言ってはみるものの、老婆を新聞紙でおおい隠してしまうことはできない。なぜって、新聞の下で何かが起きないとは限らないだろう。 
 壁の向こうから物音が聞こえた。ぼくの隣人、蒸気機関車の機関士が起きたのだ。これじゃ、部屋に死んだ老婆が座っていることを簡単に嗅ぎつけられてしまう!ぼくは隣人の足音に耳をすます。なにをグズグズしているんだ?もう5時半じゃないか!とっくに出かける時間だろう。おお神さま!奴はお茶を飲もうとしています!壁の向こうで石油コンロがシュンシュン音をたてるのが聞こえる。ああ、この呪われた機関士がはやく出て行ってくれますように!
 ぼくはソファベッドの上に足を上げ、横になる。7分間が過ぎるが、隣人の茶は未だに沸かず、石油コンロは音をたてている。ぼくは目をつぶり、ウトウトする。
 夢をみた。隣人が出て行くので、ぼくも一緒に階段まで出て行き、フランス製の錠前のついたドアを後ろ手でバタンと閉めるのだ。ところが鍵を持っていなくて、部屋に戻れなくなった。ベルを鳴らして、他の住人を呼んでくるべきだろうが、そんなことをしたら、それこそ最悪だろう。階段の踊り場に立ってどうすればいいか考えていたのだが、すると突然両手がないことに気がついた。よく見ようと頭を傾けると、片側に台所用ナイフ、反対側にはフォークが、腕の代わりにぶらさがっているのが目に入る。
「ほら」ぼくは、なぜかそこで折りたたみイスに腰掛けていたサケルドン・ミハイロヴィッチ氏に言う。「ほらごらん。ぼくの手がどんなか?」
 サケルドン・ミハイロヴィッチ氏は黙って座っている。ぼくは、それが本物のサケルドン・ミハイロヴィッチ氏ではなくて、粘土であることを見てとった。
 そこでぼくは目を覚まし、自分が部屋のなかのソファベッドで寝ていること、そして窓際のベンチに、死んだ老婆がすわっていることを、すぐに理解する。
 ぼくはぐるりと彼女のほうを向いた。ベンチに老婆はいなかった。空っぽのベンチを眺めているうちに、荒々しい喜びがぼくを満たした。ということは、ぜんぶ夢だったのか。だけど、この夢は一体どこから始まったのだろう?昨日老婆がぼくの部屋に入ってきたのは?もしかしたら、それもやっぱり夢だったのか?昨日部屋に帰ってきたのは、電気ストーブを切り忘れたからだった。だけど、もしかしたら、それも夢かな。なんにせよ、部屋の中に死んだ老婆がいないというのは良い。つまりは交番に行ったり、死体のことで大騒ぎする必要はないってことだ!
 それにしても、どのくらい眠ってしまったのだろう?ぼくは時計を見た。8時半、朝に違いない。
 やれやれ!どれだけ夢をみてれば気がすむんだ!
 ソファベッドから足を下ろし、起きあがろうとすると、突然ベンチのすぐそば、テーブルの向こうの床に、老婆が横たわっているのが目に入った。彼女は顔をうえに向けて横たわっており、口からとび出した入れ歯は、一本の歯でもって老婆の鼻の穴に引っかかっていた。両腕は胴体の下で折れ曲がっていて見えず、めくれあがったスカートの下から、白く汚い毛編みのタイツに包まれた、骨ばった足が伸びていた。
「この野郎!」ぼくは叫んで、老婆に走り寄ると、あごのあたりを長靴で蹴飛ばした。
 入れ歯が部屋の隅へふっとんだ。もう一度老婆を殴ってやりたかったが、身体に痕が残るのが心配だった。下手すると、のちのち、ぼくが彼女を殺したことにされかねない。
 ぼくは老婆から離れ、ソファベッドに腰かけパイプを吹かした。そうして20分ほどが過ぎた。すると、いずれにせよ事件は捜査当局にゆだねられること、しいては血の巡りの悪い捜査官がぼくに殺人の容疑をかけるだろうことが、はっきりとわかってきた。状況の深刻さに加え、長靴での一撃がある。
 ぼくは再び老婆に近寄り、かがみこんで彼女の顔を調べはじめた。あごに小さな黒いあざが出来ていた。いや、はやまってはいけない。万が一ということもある。もしかしたら、まだ生きている時に、老婆が自分で何かにぶつけたのかもしれないだろう?ぼくは少し落ち着いて、パイプを吸い、自分の状況について考えながら、部屋の中をぐるぐる歩きはじめた。
 部屋を歩き回っていると、腹が減りだした。だんだん強くなってゆく。空腹のあまり震えはじめたほどだ。食料品の入れてある棚をもう一度手探りするが、砂糖のかけらのほかは何もない。
 ぼくは紙入れを取り出し、金を数えた。11ルーブリ。ということは、燻製サラミとパンを買っても、さらにタバコを買う金が残る。
 夜
の間にすっかりいがんでしまったネクタイをなおし、時計を取り、コートをはおり、廊下に出て、部屋のドアをしっかりとしめ、ポケットに鍵を入れると外へ出た。なによりもまずは食べないと。そうすれば考えもしっかりしてくるだろう。そのあとで何とかこの死骸を何とかしよう。               














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老婆(小説)

・・・そして彼らの間に次のような会話が生まれる。

          ガムスン